自らを分けると書いて自分(じぶん)と読む。
考えてみるとこれはワンネスの考え方に由来しているのでしょうか?
「みなもと」から分かれた、もとは一つのものから分離したものが自分である。
イスラム教や旧約聖書には偶像崇拝を禁じるという考えがあったと思いますが、
いろいろな解釈を読まずに、自分の頭に浮かんだものを書いてみようと思う。
答えは簡単で「ワンネス」や「神は自分の中にある」ということを理解すれば、
おのずと、なぜ自分の外にある対象物を拝む必要があるのか、
偶像を拝むとは、神は自分の中にあるということを全く無視して、
忘れてしまっている状態だ、神と分離してしまっている。
偶像を拝む必要があるとするならば、人間のこころの拠りどころとして、
何かにすがりたいという想いがあるからだろう。
もしくは対象物があった方が、布教しやすいなどの事情もあるのではと思う。
少し前までは、神は自分の中にあるという事もなかなかピンとこなかったのですが、
いろいろな考え方に触れ、だんだん腑に落ちるようになりました。
やはりこういったことは何かを読んだり聞いたりしただけでは、
すぐに理解できるものではなく、何か経験していくなかで、
そのことについて考え続けた結果、ある日「こういうことか」と思うように
なるのではないかと思う。
お釈迦さまも、
自分の死後に何を拠りどころとすべきかと弟子のアーナンダに尋ねられ、
「自灯明・法灯明(法を依りどころとし、自らを依りどころとせよ)」
といい、偶像を拝む事などは禁じたそうだ。 「涅槃経」より
宗教の研究などはしたことはないし、間違っていたら申し訳ないです。
クイズの答えを探しているような感覚です。
本日は短めでした💦